"International Journal of Motorcycle Studies"(日本語でいえば『国際バイク研究論文集』)という、バイクを専門に扱う学術誌*1があることを知ったのですが、
そのサイトに論文集の創刊趣旨みたいな文章があって、その中で長年バイク文化の研究をしてきたスティーブン・アルフォード氏のメッセージが、学術誌と思えないぐらいスピリチュアルで熱いです。
部分的に訳すと(やや意訳してますが)――
バイクに乗る時、ライダーはマシーンと一つになる。それは機械と一体化したサイボーグのようなものだ。バイクに乗ることが、心臓のペースメーカーや糖尿病治療のインスリンポンプを着けて歩くのと同様、日々の生活の中心にならざるを得ない。
(略)
バイクは2つのノスタルジアを体現している。1つは、古きよき西部アメリカの記憶。もう1つは、バイカー集団がそうであるように、全てのメンバーが兄弟=同胞として一つになれるような共同体への憧れだ。
バイクは現代の高度なエンジニアリング技術の賜物だが、その一方でバイクの所有者は、それをカスタムして自分流に染め上げ、我が物にせずにはいられない。
バイクは近代文明の産物ではあるが、後期近代*2と呼ばれる時代になると、それは同時に近代が生み出した心の問題――つまり疎外感と、権威への抵抗――を象徴するものにもなった。
バイク乗りは「バイク乗りに相応しい服装や振る舞いのスタイル」にこだわるが、同時にそのことによって、「社会の束縛なんて気にしないぜ」と主張しているのである。
(略)
バイクは人々を結びつける。バイクに乗るということは、裸になったようにありのまま*3でいるということだ。誰もが同じ裸の人間として存在しているように、バイクに乗ることであなたは他のライダーと一つになる。相手が技術者であろうが株屋であろうが、教授であろうが建設作業員であろうが、そんなことは関係ない。
バイクは、生活の語り得ない次元にある本質的で重要なものを実感させることによって、「我々にとって一番大事なものは、言葉では正確に言い表せないようなものなのだ」ということを教えてくれる。禁酒主義者が絶品のワインの味を知らないように、処女がセックスを知らないように、バイクに乗るとはどういうことなのかを説明しようと試みるとき、言葉は自らの限界を知るのである。
バイクにまたがったときの「感覚」こそが、我々が皆生きる中で探し求めているものをまさに体現しているのだ――すなわち、自由というものを。
「自由とはどんなものなのか、言葉で説明しても伝わらん。とりあえずバイクに乗れ!」みたいな話ですね。
言葉にできないと言いつつ、論文集を刊行しているところが逆説的ですが(笑)
最近、バイク利用*4に関する国内外の研究をちょっとずつ確認してるのですが、東南アジアとかでバイクに乗る人が多い理由としては、クルマより安いとか、道路がしっかり整備されてないからバイクのほうが柔軟に動けるとかいう理由が挙げられますが、先進国で語られる「バイクに乗る理由」は、「自由」とか「既成の秩序からの解放感」とか「仲間との一体感」とかそういうのが多い印象ですね。
それは、60年代から70年代ごろに(たとえば映画の『イージーライダー』に象徴されるように)、バイクに乗って旅をすることが反体制的なカルチャーの体現していたという背景もあるんですが*5、面白いのは「クルマとはどう違うのか」という点について、バイクに乗って身を危険さらすことで人はしょうもない不安や悩みを忘れて前向きになることができるのだと論じられるところですね。もう少し詳しく調べて、まとめようと思っています。